考えて、感ガエル。

たぶん、思ってる以上にはシンプルなよのなか。

会話の話 その①。

ここ最近何度も感じることがあって、それがようやく「なるほど!」となったお話です。
私の経験に基づく私の分析に基づいています。ご了承下さい。

私が度々言う「自分を知ること」のやり方のヒントとして見るのも良いかもしれません。
非常に長くなってしまったので、2つに分割して書きますね。


私は人見知りです。
故にお話をたくさんしてくれる人が好きです。
私を聞き上手として認めてくれる人が多く、安心していろんなことを相談しに来てくれることが多くなりました。

私もお話をする側になりたい時があります。
何でも話せそうな相手だと判断したとき、思い付きでいろいろ話をします。非常に心が自由な状態です。

真面目な話は大好物です。
自分の考え方を話して、相手の考え方を聞いて、いろんなことに気付くことが出来ます。

単に情報を得ることも好きです。
単語・文書を脳内に収集して、詳しいことは自分で調べる…勉強に近いかもしれません。


私の解釈している「会話」について少し考えてみました。
まずここ最近で気付いたことは、「言葉は贈り物」だということです。
言葉の行き来が心地好い状態でキープされていることが「ストレスの無い会話」の領域です。
見返りを求めるような贈り物は良くないですし、贈り物は押し付けるものではありません。良い贈り物には良い贈り物で返したくなります。悪い贈り物にはそれなりの態度が出てしまいます。
互いが心地良い状態であれば、良い会話は成立しているのです。

みなさんは人に贈り物をするとき、「どのような反応が返ってくるのか」を無意識に想定しませんか?
喜ばす・驚かす・泣かせる・笑わせる…のような様々な感情を期待しますよね?
つまり贈り物である言葉にも、無意識に反応を想定しているものだと考えます。

人の言葉には目的があります。
私の場合だと、冒頭で綴った「話を聞いていたい」「自由に話したい」「真面目な話をしたい」「知識が欲しい」といったことです。
「自由に話したい」モードのときに、何故か批判されたり、会話を奪われるなど、想定外の反応が帰ってくると非常にもやもやするわけです。そうなった場合、面倒になるので自分から話題は出さなくなります。
大抵向こうが喋りたいタイプなので問題はないわけですが。

例えば…
A「今日食べたランチめっちゃ美味しかったんだよー!」
B「私ダイエット中だから最近ランチ抜いてるんだよねー」
A「(あ、あれ…)」

更に…
A「昨日○○って映画見てきたよ!!」
B「私は公開初日に見た!!私最近映画見なくなったけど良かった!高校のときはよく見ててね、そのとき一番好きだったのが(ry」
A「(あ、あれ…)」

Twitterで言うクソリプというものもこの残念な部類に当たるでしょうね…
こう見てみると、「こんな反応をされたかったわけではない」とは実は思っているわけです。
人に相談するとき、男は解決案を求めるが、女は聞いて欲しいだけ、という話は有名ですよね。
私たちは無意識に反応を想定して言葉を発しているのです。


以上、ここまでが言葉は贈り物なんだよ~というお話でした。
後半はこの問題に対しての考察・結論編になっていきます。
明日更新予定っ

「自分探し」のこと。

この文が、知人の服の"Find yourself"という言葉で先日大いに盛り上がったことがキッカケだなんて流石に言えませんなあ…

自分探し
それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。(大辞泉より)
自分の現状に満足できず,本来の自分の性格,人生の目的など,納得できるものを探し求めること。 (大辞林より)

「自分探し」という言葉は、思春期を過ぎてから表れる、一種の現実逃避として捉える人がいるくらいには悪い印象もあると思います。
いい意味でも悪い意味でも私は第二次中二病と言えるのではないかと。
実際、「自分探しの旅に行ってきます!!」なんて台詞、そうリアルで聞くことはありませんよね。


一般的に「自分探し」というものは、自分に合うもっと特別な何かがこの世に絶対に存在する、と思って動き出す自己改革の始まりだと思います。
それはとても素敵なこと。新しい自分に出会う良いきっかけになるに違いありません。

でも私は勧めようとは思いません。
何故なら、わざわざ大それたことをしなくとも、いつでもどこでも誰にでも出来ることなんです。
そんな「自分探し」のためだけに時間を使うなんて、もったいなくはありませんか?

結論、「自分探し」とは「自分を知ること」に他ならないと思うのです。
そんなこと、わざわざ特別なことをしなくても何とかなりそうでしょう?
しかし人というものはどうしてでしょう、自分のことをなかなか認められなかったり、向き合うことを避ける傾向にあります。
そういう人をたくさん見てきました。


突然ですが例え話です。
炊飯器を想像してみて下さい。
ご存知の通り、炊飯器は米を炊くものです。
炊飯器ユーザーのほとんどは、お米を炊くことでしか炊飯器は使いませんし、それ以上のことは求めません。
炊飯器は早炊きやお粥コース等の特殊炊きといった「炊飯器が米を炊く」という役割の中で幅広く活躍していますよね。

ある日炊飯器は思いました。
「僕はこんな生活を送るために生まれてきたのだろうか…」
ここから炊飯器の「自分探し」の旅が始まる…!!
あくまで例えのお話ですが(笑)

今では周知されていることですが、炊飯器で実はパンやケーキが作れますよね。使い方でいくらでも料理の幅が広がるキッチンツールです。
でもこれは、炊飯器の持つ機能を理解したからこそ広がった可能性であって、炊飯器を発明した人が狙ったことではないでしょう。
「米を炊く以外のことなんて認めない!!」と怒る炊飯器もいても面白いですよね(笑)


つまり何が言いたいかというと、「自分探し」のためにわざわざ何かをする必要は無いんです。単に自分を知ってあげればいいんです。
そして良いところも悪いところも全部受け入れてあげるんです。
受け入れてからが、本当の意味での人生の始まりだと私は思っています。

自分の経験は自分が一番知っています。
自分自身が一番の理解者になることは可能なんです。
むしろ自分をよーく知って、それから「自分試しの旅」に出掛けた方が楽しそうじゃないですか?

今の自分で勝負することの方に時間を掛けてみたら、きっと世界が変わりますよ( ˘ω˘ )

名前の話。

今回は少し個人的なお話です。
先日、芸名というものを変えました。
「びゅう」という名前で数年間、いろんな方々と仲良くして頂きました。
今は「神蔵 愛」、かみくら まなみと名乗っています。名前だけ本名です。

このびゅうという名前になるきっかけは、高校時代にとある友人に「やあビューティー!今日もビューティーだね!!」と3年間言われ続け、その頃始めたSNSで「びゅーてぃ」と名乗り始めたことだったりします。なんちゃってBeautyみたいな気持ちで(笑)
大学に入るとSNSの発展からか、ハンドルネームがそのまま呼び名になるのが主流になっていました。

そのうちSNSの交流は広がっていき、いつしか本名に触れることが無くなりました。それはそれで、新しい自分に変われた気がして当時は嬉しかったんです。
でもちゃんと芸名を付けるタイミングで、迷ったんですよね。
親から貰った名前やん…って気持ちと、旧名からの移行の面倒くささがありました。
結局「びゅう」を選びました。
インパクトあるし、覚えやすいし。

でも当時から「愛」という言葉との関わりが強くなっていました。
一匹狼でいることが楽で好きだった私が、人との繋がりの大切さを覚えたからです。
人に愛情を注いで何かを達成する喜びを知りました。
ちょっとクサいと思いながらも「愛って凄いじゃん!」と。
人の為に愛を注ぐのではなく、愛を注いでいたら人に尊敬されるようになりました。
その延長として、今があります。夢があります。
私のスタートは「愛」から始まっています。

とある写真家さんに改名を悩んでいると言ったら、こんな風に返ってきました。
「自分の名前は、親が決めたんじゃなくて、自分で決めたものなんだよ。前世の自分が決めたことなんだよ」
まるで忘れていたことを思い出させてくれたかのように、抵抗無く言葉が入ってきました。
既に自分の中では答えは決まっていたのかもしれません。
変わったとか変われたじゃなくて、きっと最初から自分自身でした。

ずっと「びゅうさん」って呼んでくれた人は、ちょっと慣れないかもしれません。
もちろん強制しないし、悲しんだり怒ったりもしませんよ(笑)
でも、「まなみん」とか「まなみさん」とか「まなる」とか、そう呼んでくれる人が少しずつ増えたら嬉しいなって思いますヽ(〃´∀`〃)ノ
これからも、神蔵愛をよろしくお願いいたします!!

理想の範囲について。

突然ですが、私はなりたいと思ったものには絶対なれるものだと思っています。すべて、一応、不可能なことではないと思うんです。

今「じゃあ猫になりたいって思ったらなれんのかよ~」とか思いませんでした?笑

それは本心じゃないと難しいかも…でも冗談抜きで思ってる人は叶うと思いますよ。

というのも、意外な形で実現してしまうとか、そういう風に捉えれば確かに叶っている、のようなことはあると思うんです。例えば劇で猫の役をやったら…はたまた来世で猫になっていたら…それは一応叶ったことになっちゃいますよね?

 

人が持つ「なりたいもの」は全員違います。

あなたがなりたいと思うものは、それを実現することを許されています。

「理想」ってどこから生まれると思いますか?

親を見て、尊敬する人を見て、好きなスポーツ選手を見て…いろいろありますよね。

「自分もやりたい」と「自分にはちょっと…」の違いはどこから出てきますか? なれるかなれないかの違いではないですか?

 

例えば歌手になりたいと思ってる人は、まずそれだけで歌手の才能があると言いたいわけです。もちろん道のりは人それぞれですが、願った瞬間、その人専用の人生のルートが組まれるのだと思います。

少し抽象的なイメージにはなりますが、人生のルートが可視化されたとしたら、人の思考の動きに対応して常に目まぐるしく変動しているものです。時に優しく、時にいじわるな生き物、これがいわゆる運命というものですよ。

 

「なりたいもの」という切り口で入りましたが、それはすべて人の思考に影響されます。たくさんの思い込みが邪魔をして理想を遠ざけることもしばしばあるでしょう。

運命とはとても素直な生き物です。素直すぎて厄介なんです。まるで自分が魔法を使ってるかのように、簡単に言うことを聞いてくれます。

しかし多くのことはこの世界に生まれたときに常識やルールとしてある程度のものが気づいたら刷り込まれています。人生そううまく行くもんじゃない。まったく嫌な思い込みが入れられてしまったものです…

ダイレクトに運命に働きかけることが出来るようになったらどんなに幸せか(笑)

自分を否定するものがすべて取り払われたとき、きっと出来ることなんだろうなって私は思っています。

だから、なりたいと思ったものには絶対なれるものなんですよっ

「謝る」ということ。

ふと「謝罪」について思い浮かんだので、書き留めようかなと。

何を隠そう私は「聞いてもいない理由を聞かされること」が大嫌いなのです。この世で一番興味がないことかもしれません。本人は言い訳のつもりでなくとも、優先される感情の方向でそれはいくらでも言い訳に化けてしまう。

何か過失をしてしまった場合、何を一番優先すべきで、何に一番気持ちを入れるべきであるのかが重要だと思うのです。

過去の喧嘩に今でも引っかかりがあるとすれば、謝罪よりも悲劇のストーリーを聴かされたこと。伝えたいことは、そこなの?

仕事の失敗なんかでは、すぐにその失敗を上書きしていかなければいけません。信用を取り戻すために、聞かれてもいないお話を語る時間なんて存在しません。求めることは誠意だけ。友達との約束レベルでも、同じことは言えると思います。

言い訳をしてしまう原因として、多くの人は自分への評価について考えてしまいます。理由を言わないと後で何言われるか分からない…嫌われてしまうかもしれない… 結局それは「あなたが思ってるほど私の罪は重いものではないんですよ」という主張に過ぎないんです。

ここでは追求しませんが、何をしても許される人とそうでない人の違いにはこの思い込みの有無が関わるものと私は仮説を立てています( ´-`)

いろんな人がいるので、家庭環境によっては謝り方を知らない人は存在します。単に叱られた経験がない人、謝る隙を与えてくれない環境や恐怖心を強く植えつけられてしまった人。謝っても裏で悪口を言われる経験をした人は、自分を正当化してあげることでしか自分を救ってあげられません。

やはりまず大事なのは、「聞いてあげること」なのかもしれません。

そして、理由を話すよりも「ごめんなさい」の誠意を示すことが相手への思いやりってことを教えてあげましょ( ˘ω˘ )

 

追記:「言い訳」が主体の人は「理由を聞くこと」で満足する傾向にあるかもしれません。それは誠意の見せ方に影響してくるとは思うのですが、うーん、どうなんでしょう…八方塞がりですw